私は「一生保育の仕事で食って行きたい、それには保育のプロになるしかない」と幸せな大人に成長する子どもへの関わり方を求めていました。神奈川、東京、山梨と7回転職し8園に勤めましたが、それを叶えられそうな教育者のいる園が見つからず、どの園もだいたい子どもを管理する保育をしていました。
大人の指示通りに行動できる力は大事ですが、それが100%でこの子たちは幸せになるのだろうか。自分で決めて、やってみて、失敗して、またやってみて、、という当たり前の子どもの権利が生活にあった方がいいのではないかと思いました。
ただそんな園に勤めていると私も子どもを管理した保育をしてしまいました(そうせざるをえない保育者の人数だったとも言えます)。するとある日、自分のクラスの3歳女児に「先生、泣いてもいいですか」と言われました。がーん、ダメですね。感情まで管理してどうするのですか。大変申し訳なかったと思っています。
それから色々な保育方法を探しましたが、しっくりくるものに巡り合わず、自分で考えるしかないのかと思いました。現在ピッコロでの子どもへの関わり方は、私が「この方法は子どもの表情が光った」「これは子どもが前向きになった感じがする」などと1つ1つ彼らとの生活の中で生み出していった保育方法です。なので今でも変化し続けています。
私は幼稚園や保育園に勤めていた時、子どもたちを管理する保育をしてきてしまいました。例えばおもちゃを片づけない時、色々な言葉で促し、できず、最後には怒りました。これじゃだめでしょと今度は褒め始めました。すると子どもたちは私に褒められる為に片付けました。これもどうかな。私は叱る褒める以外の保育方法がないかと探し、悩んだ末「片づける意味や必要性を子どもたち自身が感じないとだめだ」という考えに行きつき、試行錯誤でその保育を模索し始めました。ほとんどうまく行きませんでしたが、時々うまく行き、どこにもない私独自の保育方法に希望をみました。
管理する保育から待つ保育へ。待つということは指示、誘導をせず、子どもたちが自ら「片づけようか」と思うということです。それにはどうしたらいいのかを保育スタッフ、保護者とものすごく考え、やってみて、ただ放任している訳ではありません。
その内容は多岐に渡り、「片づけるようになる」という表面的なことではなく、例えば「この子はいつも我慢しているのではないか」や「もっとお母さんと一緒にいたいのでは」などと内面的なことまで、長時間、何回も考え試し、次第に子どもの周辺や内面が整ってくると「(他の子が出したおもちゃさえも)片付けたい子」になることがあります。問題行動と呼ばれることは、もしかしたら子どもから大人へのサインなのかもしれません。しかしただ単に片付ける子がいい子という訳でもなく、その子がその子そのもので生活することを目指しています。
また待つということは子どもたちが自分を生きる場を大人が作ることだとも思っています。自分を生きるからどんな個性も光り、その子そのものになり、自分が好きになる。それは自己肯定感につながりそうです。
大人になるとどう見られるかを気にしたり、今の自分を肯定できなかったりすることが多いと思いますが、どんな人もその人そのものがそこに存在するだけで、世界は幸せになるのではないかと思います。本当の意味で「自分が自分のままでいること」はとても難しいのですが、平和の社会にはそれが近道かもしれません。
また子どもは生まれた時からすでに大人を超えているのに、大人が管理すると子どもは大人を超えられません。子どもの可能性という言葉をよく使いますが、それは大人を超える力も含まれると思います。
ピッコロでの保育時間中80%くらいの割合で、子どもたちの「気持ちをわかる」ということをしています。
一例ですが、先日スケート場のような川の氷の上で遊んでいたら、A君が滑ってBちゃんに当たり、Bちゃんも転んでしまいました。「痛い〜〜〜」と泣いているBちゃんに「痛かったね」「ただ立っていただけなのに嫌だったね」「濡れちゃったしね」と彼女が感じているであろう感情を言葉にしました。彼女は「うん」「うん」とうなづきながら、少しずつ泣くトーンが下がってきました(泣きやませる為ではありません。彼女の気持ちをスッキリさせてあげたいという気持ちです)。
ただその話しの間中ずっと転ばせてしまったA君が、ものすごく申し訳なかったという顔で静かに隣りで立っていました。A君の気持ちもわかった方がいいと思い、
中島「Bちゃんを(わざと)転ばせたかったのかしら」
(これはBちゃんにも聞いて欲しいという意図もあります)
A君「ううん」
中島「転ばせちゃったの?」
A君「うん」
(ピッコロっ子には「忘れちゃった」「こぼしちゃった」と不可抗力に対しては仕方なかったねという風潮があります。)
中島「あ〜、”ちゃった”か〜、そういう時あるよね、A君もびっくりしちゃったね」
A君「うん」
中島「あ、でも ”ちゃった” でも謝ったのかしら」
A君「うん」
(不可抗力でも相手は痛いのだから謝った方がいいと私は思います)
私はBちゃんに「A君は”ちゃった”だってよ」と言うと、Bちゃんは下を向いて
「わかってる、痛かっただけ」
と言いました。A君の事情も十分わかっているのですね。私は「そうだよね、わかってるよね、痛かったんだね」と身体をさすり、また「気持ちをわかる」をしました。
だいたいの事情も理解し、2人も落ち着いたように見えたので、そろそろ平和に終わらないかしらと思い、よく使うのですが『顔を見せる』ということをしました。子どもは言葉より相手の表情から何かを汲み取ることが多いと感じます。
私がBちゃんへ「A君がごめんねの顔をしているから見てごらん」と言いました。A君の申し訳なさそうな顔を見たら「もういいよ」という気持ちになるかもしれないと思ったからです。
BちゃんはA君の顔を見ました。するとその瞬間、なぜかA君が自分の顔を少し笑った顔に変えました。私は「え、なぜ!申し訳ない顔を見せたいのに!」と思いましたが、なんとBちゃんはA君の顔を見て
「え〜!普通の顔〜〜〜〜!」
とゲラゲラ笑い始めたのです!(え、ここで笑う?)。
すると誘われるようにA君もゲラゲラ。私も全くシナリオ通りにならないこの結末にゲラゲラ。
はい、この件はここで終了しました。もしかしてBちゃんはA君の申し訳なさそうな顔を見ても見なくても、すでに許したい気持ちだったのかもしれません。だから大きく笑ったのかな。
今回は平和で楽しい結末になりました(お互いの気持ちがスッキリしない場合はスッキリするまで何分でも向き合います)。トラブルに立ち会う時、果たしてこのシナリオのないドラマは気持ちよく終わるのかと、ずっとハラハラしていますが、毎回なんとかうまくいきます。マニュアルもないし、保育者は職人ですね。
事例が長くなりましたが、誰かが気持ちをわかる(理解する)と子どもは嫌な気持ちを浄化させ、次に歩き出すような気がします。もしその誰かがお母さんやお父さんだったら最高かもしれません、一生のことですから。
そしてもちろんマイナスの気持ちだけでなく、嬉しい、楽しい気持ちも共感します。どんな気持ちにも共感するということは、あなたはあなたのままでいいというメッセージになり、子どもたちの内側がどんどん太くなっていくようにも感じます。
ただしこれは『気持ち』に共感するということで、行動を全て受け入れるということとは違います。気持ちはものすごくわかりながら、ダメなことはダメと伝えることも大事だと思います。
ついでにこのようなトラブルの仲裁の時、私はどちらが悪いと審判せず、詳しく事情を知り(←これ大事)、気持ちをわかるだけにしています。すると子どもたちが「私はここが悪かった」「”ちゃった”だから悪くないけど、いやな気持ちにさせたから謝る」などと自分で動き出すようになります。子どもたちの成長を助けるのは裁判官ではなく、気持ちをわかる弁護士的な存在なのかもしれません。
成功や失敗がない場で、小さなことでも大人から指示されず、自分で感じ自分で決めてやるという3年間を過ごすと、誰と比べることなく自分への信頼を得られ、それは同時に他者への尊重にもつながります。
また自主性という言葉は難しいですが、ある保護者がとてもいい表現をして下さいました。例えば散歩中に美味しそうな実をみつけたとします。それを「どの方法で取るか」「どの道具を使うか」「誰が取るか」と最初から「取ることがいいこと」という前提で子どもたちが動く場合と、その保護者は「ピッコロは取るも取らないも何でもいい自由がある」と言っていました。「取ることがいいこと」という大人の枠がない場で子どもが「取る」「取らない」「それ以外なんでも」を自分の意志で決め、それは彼らの自由だと思っています。更にここで私は極力「取る(取らない)方がいい」と思わないようにしています。大人が思うだけで、それを敏感に感じる子も多いからです。
これも難しいことですが、自由は自分勝手とは違い、自分の自由が他人の自由を阻害しないことではないかと思います。
例えば絵本を読んでいる時、何かを話したくなった子(私語)がいるとします。すると絵本を聞きたい子が聞こえなくなりますが、私語を認めることが自由ですか、それは迷惑かな。聞きたい人がいたら私語をしたい気持ちを自分で止めることも大事だと思います。
その場合ピッコロでは絵本を読んだあとに子どもが子どもに
「今、〇〇ちゃんが話していたから(絵本が)聞こえなかったよ」
と伝え、私語の子が改めるということがよくあります。子どもは大人からの指示でなく、子ども同士の関わりで私語はしない方がいいと知ります。
ただ以前絵本を聞いている時、年少児がぐずり、私が静かに抱っこで一緒に外に出たら読み終わってから子どもたちに言われたことがあります。
「その子が泣いていても絵本は聞こえたから、外に出さなくてよかった」と。
がーん。「絵本が聞こえなくてかわいそう」と私が勝手に判断したのですね。けれど子どもは私語の子に注意することもあるので、その違いを聞いたら、
「今日ぐずった子はまだ小さいから今は私語をしてもいい。(私語は迷惑だと)わかる子には注意する」
と言われ驚愕しました。子どもたち同士は誰が今どのくらい育っているかがわかっていて、注意したりしなかったりと自分たちで調節して育ち合っているのです。一概に「絵本の時の私語はだめ」ということではなく、もっと細かい眼で子どもたちは場を見ています。私はその育ち合いを邪魔しないことが一番大事かと背筋が伸びました。
私は動物として自然の中にいることはいいことではないかと思っています。
また昔入園して初めての冬を迎えた年少児が、凍えそうな冬に向かって
「寒い〜〜〜〜!!!」
と怒っていました。それを見た年長児は
「寒かったら走ればいいよ」
「お母さんに温かい上着を買ってもらいな」
と色々なアドバイスをしました(いやこの年長児も年少児の時には怒っていたのですがね笑)。
圧倒的で人間の力では変えられない大自然を自分に合わせることはできず、自分が合わせるしかない。もしかしてそこに人間の器を大きくする元があるのではないでしょうか。
例えば初めての集団に入る時「自分をわかってくれない」と相手を変えようとするのか、自分が変わり周りの環境に合わせるのか。どちらでもいいのですが、少しだけ後者の方が今後の人生で自由に生きられそうな気がします。
またただ自然の中にいるだけでいいということではなく、私は集団教育を担っていて、そこには大人の関わりはとても大事だと考えます。
全員着席し、朝の会を始めようとすると、遠くに遅れて登園する子が見えました。その子からは通院してから登園しますという連絡があったので、私が朝の会を始めようとすると子どもたちから
「まだやっちゃだめ」
「〇〇ちゃんが来てから」
との声があがり、子どもたちは朝の会を始めずいつまでも待っているので私もそうしました。
もしここで大人の常識で「あの子は通院だから先に朝の会を始めていいのよ」と朝の会を始めたらどうなりますか。遅れた人は置いていっていい、通院した人はどこかが痛いので、より優しくしてあげた方がいいのに、置いていってもいいということになりますか。
そうだ、1人残らず置いていかない世界とはこういうことだったと、その時は私が考えを改めました(場合によっては改めない時もあります)。
また遅く来た子が
「先に始めてていいよ」
と言うと、子どもたちはすぐに朝の会を始め、遅れてきた子の気持ちを尊重しているのだなと感じます。
誰の気持ちも置いていかない集団は誰の権利も尊重される集団で、上も下もない社会です。もしかしたらそれが個々の幸せにつながるのかもしれません。また民主主義は個々が尊重され、自立していないと成立しないと思います。これは人権ということでしょうか。個人の幸せは社会のあり方と密接していると感じます。
またこれは多様性と呼ぶかもしれませんが、みんなの前で発表できない恥ずかしがりな子、支度が遅い子、すぐ泣いちゃう子、理解が遅い子と色々な子がいることが望ましい集団で、全員がリーダーで全員が理解が早いという集団はあり得ないし、どこか変、その子がそのもので、デコボコが組み合わさって初めて楽しい集団になると思っています。
ただ本人が「みんなの前で発表したい」「すぐ泣きたくない」と願うなら応援はしますが、それを決めるのは本人で、私はどちらでもいいと思っています。
また「尊重」とは違うかもしれませんが、小さい頃自分のおじいちゃんの「男子が台所に入るなんて」という考えに「古いな〜」と感じたことがありました。子どもたちと私はその位の歳の差で、私の考えはだいたい「古いな〜」の種類だと思うのです。
ただおじいちゃんもなるほど!さすが!と思うことも言いました。だから全面的に古いからダメということではありません。私は子どもたちと接する時、基本的には「古くてごめんね」の気持ちなのですが、でも古いなりに伝えた方がいいこともあり、その判断がものすごく難しいと思っています。
ただし古い私ももちろん存在していてよく、少し好きなので、否定されている気分ではありません。
強烈なリーダーが何かを決めて、他の人がそれに従うという時代がありました。その時代に懸命に生きた方々のおかげで今の平和な社会があり感謝しています。
ただ時代は進み、最新版にアップデートされて産まれてきた子どもたちは、誰の気持ちも置いていかない平等で平和な考えがデフォルトで備わった人たちだと感じ、リーダーが引っ張る時代はそろそろ終わったと思います。子どもたちは今までとは違う平和に向かっています。
ピッコロの子どもたちは例えば卒園旅行の夕食のメニューを3種類から1つに決める時、
「多数決で決めるのは嫌だ。気持ちが残るから。気持ちで決めたい」
と言います(もちろん教えてないです、というかこんな高度なこと教えられません)。翻訳すると「多数決で決めるとそのメニューが嫌な子の気持ちが納得しないままになる(気持ちが残る)ので、全員の気持ちを知り、話し合い(気持ちで決める)たい」と言っています。
みんなの気持ちを聞き、なぜそのメニューがいいのか、どの位の熱量でそれがいいのか、それなら自分は譲ってもいいか、いややっぱり譲りたくない、他のメニューも食べたくなった、このままだと決まらないから少し譲るかと、自分の気持ちを色々と調整し、毎回とても長く、会議は何回にも渡りますが、見事に1つのメニューに決めます。
譲り方も子どもたちは「我慢はだめ」と言い、我慢以外の心の使い方で、誰の気持ちも置いていかない、それはそれは毎回見事で爽やかな決め方になります。
誰の気持ちも(自分の気持ちも)尊重する子どもたちだから、この話し合いができると私は思います。民主主義は個々が尊重され、また他者に依存(誰かがこの意見だから自分もその意見にする)していないことは重要かと思います。
また話し合いは面倒だし時間もかかります。ピッコロでの何回もの話し合いを経験し、子どもたちは「自分たちは何回も話せば、絶対に(いい決め方で)決められる」と自分や仲間を信じるようになり、何事も自分ごとに考える姿と共にシチズンシップ教育の入り口になればいいなとも思っています。